拡張する美術 8月16日

 
美術館で各時代に区分された作品を、時代を追って順次観ていくと、近代から現代に移行した時点でホッとし、自然体で作品に向き合っている自分を発見する。ドイツ・イタリアでの体験でも同様だった。ただ、イコンには何か特別な吸引力があり、その前に立ち止まってしばらく見入ってしまった記憶がある。これは、日本の古典美術である飛鳥・白鳳文化の仏像の前で足を止めるのと同じ心境なのかも知れない。何れにしても、僕にとって身も心も開放されて向き合える時代の美術は、所謂現代美術と呼ばれるジャンルだ。ただ、30年前に保持していた、作品に初めて出会った時の驚きに似た感覚は、今はもう薄れ、「現代美術固有の新しさ」という囲いの中の行為になっていることは否めない。現代美術は資本主義の隆盛期の美術と言われる所以はそこにある。それ故、一般的に言われる現代美術というジャンルが、コンテンポラリーな表現を代表しているとはもはや言えず、そのことが大分以前から「現代美術は死んだ」と言われる要因にもなっている。その裏を取るように、二年に一度開かれている伝統的な?現代美術の国際展であるヴェネチア・ビエンナーレは、今年、最も注目される作品として中国から参加している作家をあげ最優秀賞も与えられている。このことに象徴されるように、資本主義がまさに隆盛期に入ったという条件が整った国で、現代美術は活況を呈する。1960年代に美術手帳が、「全ての動詞」は現代美術のテーマあるいは、手法になり得るとして特集を組んだことがある。例えば、「描く」ことを離れ、「たたく」・「やぶる」・「焼く」・「埋める」・「こする」・「結ぶ」・「投げる」・・・・・・「沈黙する」・「止める」というようなコンセプチュアル・アートに至るまで実験的試みは繰り返された。こうして、表現領域は無限に拡張され、この動詞的なるものは全て現代美術として解釈すれば表現として認知される、という下地は出来上がった。そして、そのような資本主義の隆盛期を過ぎた現在の日本では、後から追ってくる中国人作家の表現行為や、今回日本から参加した宮島達男が行った「柿木プロジェクト」で、柿木の苗木を「植える」という行為に、その苗木が長崎で被爆した柿木を、樹医の手によって再生し、ボランティアの手によって世界各地に植樹するという倫理的な物語を含ませても、ただ懐かしい風景としか眼に映ってこない。コンテンポラリーという地平での現代美術としては[終わってしまった」表現でしかないのだ。かって日本でも「グループ位」という美術集団が、美術館を中心に展開していた発表形態の制度的な在り方を批判し、様々な既成の美術を逸脱した表現を展開していた。また、ドイツのヨセフ・ボイスにいたっては、旧ロシア皇帝の黄金の王冠を観衆の見る前で溶解し、それを一匹のウサギに鋳造するという超・美術的な表現を行った。無論、現場はそれを聞きつけた右翼が押し掛け、制止する警備員との衝突は熾烈だったという。僕自身、そのような美術行為を現場で眼にした訳ではないが、当時の資料に眼を通すだけで、その表現のあらゆる意味でのポテンシャルの高さは想像を絶するものだったに違いない。

新聞のコメントによると、このビエンナーレの日本館のコミッショナーを務めた東京都現代美術館学芸部長の塩田純一氏は、「今、美的な質や完成度を競う西洋流の芸術作品のあり方に異議が申し立てられている。『柿の木』に触発されて、なにか表現が生まれたとき、それをアートと呼んでもいいのではないか。宮島さんの作品は、二十一世紀の新しい美術の可能性の一つだ」と述べたと紹介されていた。確かに無限に拡張することが現代美術の一つのスタイルでもあるので、この「柿の木プロジェクト」が新しいアートには違いないが、それは「新しい品数が増えた」という観点での新しさであって、決して資本主義的構造外のそれではないため、どこか既視感が漂うものだ。それ故、皮肉にもその中に現代美術としての完成度を感じてしまう。従って、もはや「美的な質や完成度を競う」スタイルも「柿の木を植える」スタイルも、表現の地平では新しくも古くもなく等価に浮遊しているはずだ。コンテンポラリーな表現とは、今まであった発表形態の制度的在り方や、時間・空間に所属しないところでもうすでに行われているはずだ。ただ、それが確かめられるやいなや恐らく「現代美術なるもの」にそれは組み入れられ消費されてしまう運命にあるが、それは仕方ないだろう。表現を共有するとは、そういうことなのだから。

 世紀末という言葉を聞かない日はないぐらいよく使われる昨今、世の中が閉塞感に充溢していることは事実だ。しかし、二十一世紀に入ったからといって世紀末的でなくなるかというと事態はそう単純ではないだろう。新しいリアリティーとはミッシェル・フーコーが言ったように時代のエピステーメ(その時代を根底から支えている知を指し、中世で言えば宗教、二十世紀の今日で言えば科学的志向性を意味する)が変わらなければ生まれない。同じようにパラダイム変換された新しい表現は、次のリアリティーを保証するエピステーメが生まれなければ出現しないだろう。当然の事ながらそれを生むのは個人的営為ではない。偶然を含む社会構造の変化が新しいエピステーメを方向付けることだろう。それを観念的に分かっていても作家という性分は、新しいものを生み出そうと狂気にも似た幻想の中で夢見、もがき続けるよう出来ている。ちょっととしんどいが、当分逃れることは出来そうもない。この事態を楽しむ術を身につけながらいくしかなさそうだ。

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