続・東海村放射能漏洩事件 10月4日
今回の事故の一報をニュースで知ったとき、事故を起こした「J.C.O」というウラン加工会社が、民間の企業であったことに何か奇異な感じがした。この腑に落ちない曖昧な不安は、一体何処からやって来るのか暫く考えてみた。まず、いい意味でも、悪い意味でも民間企業である以上、そこでは徹底した経済原理が働くという運営上の宿命がある。資本主義社会である以上、時間効率と経済効率、つまり一円でも経費を抑え、一分でも時間を軽減して仕事を進めることが、民間企業の至上命題となり会社経営の中心的課題であるということだ。そして、企業の運営が軌道に乗っていれば問題はないが、一度経営が支障を来すようになると企業という生命体を存続させるため、モラルや安全は二義的なこととして後回しにされる。民間企業という言葉のひびきに呼応して浮かび上がる不安は、これら民間企業の陰の力学を漠然と知る僕らの無意識からやって来ると思われる。このことは、原子力事業が市民権を得ていないと言うことを感覚的に象徴している。すなわち、安全より営利の方が優先される日本の民間企業の構造は、核燃料を扱う組織として適当でないということだ。厳しい市場原理のはたらく資本主義社会の中で、企業モラルが営利を超えて徹底されるほど、日本の企業は成熟していない。
こんな話がある。何年か前、あるイベント会場で環境問題をテーマとした車の見本市(東京モーターショー)がひらかれた。内外を問わず、各社低公害をうたったエコカーを競って展示した。盛況の内会期を終え、各企業が退去した後、欧米企業の展示会場には一切のゴミは残されていなかったが、日本企業の展示会場のあとには、展示を演出した備品等のゴミの山が残されており関係者があきれたという。環境問題の真意をまったく理解出来ていないのだ。これが残念ながら日本の現実と言うことになる。だとしたならば、ウランという最終戦争を演出する事が可能な核物質を、日本の一民間企業に委ねてはならないと言うことだ。そして、市場原理のはたらかない組織となると、やはりパブリックな組織として国の管理下に置き、安全が最優先されるような力学がはたらくように方向付けるしかないのか?まるでダダッコだ。これはマジで日本資本主義の敗北だ。しかし、思い起こせば10年前の湾岸戦争の後、日米構造協議の米国による日本改造計画案をクリアーしていれば、今回の惨事は起きなかっただろう。この計画案が提出された直後、吉本隆明氏は「二度目の敗戦だ」と高く?評価し、次のように述べていた。「武力による敗戦もみじめといえばみじめだが、平和な時期の社会経済的な頭脳の敗北は眼に視えないだけに、もっとみじめだともいえる。」「構造協議米国案によって日本の社会経済は正確に解剖し尽くされ、完膚ないまでに頭脳的な従属を強いられたといっていい。」「これだけの問題点を指摘するには、レントゲンで透視したとおなじような、社会経済の正確な分析が根底にあることは、まったく確実なことだ。」少なくとも10年前に、米国は今日の事態を予測していたといえる。つまりバブルの崩壊、金融破綻など日本資本主義の根幹の病理を、その解決案を含めて、とうの昔に承知していたと言うことだ。この10年間、のほほんのほほんと、米国からの指摘を解決できず来てしまったことが、東海村の放射能漏洩事件に繋がったといえる。
敗戦とはこういうことなのだろうか!吉本氏が言うように、戦後50年をかけて日本の国家理念を築く事が出来なかった僕らは、悔しいけれど民主主義と資本主義の基本を欧米から学び直し、誇りの持てる日本をつくって行かなければだめだ。昨日、SONYの創設者の盛田氏が亡くなった。日本がクリエイティブな表現が出来ることを、内外に証明して見せた希有な企業人だ。僕らは、必要以上に自己評価を落とすことはない。それは、ヤワな精神から逃避するため国粋主義へと傾倒していく道をつくるのが関の山だ。よく言われるように、民主主義も資本主義も妥協の産物である。つまり、現在のところ相対的にこれ以上に優れたシステムが生み出せないため、仕方なくこの制度に乗っているわけだ。だとしたら、これを徹底してやって行くしかない。三度目の敗戦をむかえる事のないように。