[斉藤義重展」を観て  10月24日

 先日、神奈川県立近代美術館にて「斉藤義重展」が好評のうち終えた。20年前、東京画廊での氏の個展の制作を手伝った。そんな縁で、氏から招待状を頂き、かみさんと鎌倉へ出掛けた。

 美術館の中庭にある源平池は、20年以上前、僕がまだ鎌倉彫の修行中の頃、工房が近くにあったこともあり昼休みよくスケッチに足を運んだ場所だ。昔は鴨や白鷺はいなかったし、亀はまだしもスッポンなど見たこともなかったなあ・・・・・・・と、しばし懐かしく蓮の葉が生い茂った水面を眺めた。

 95歳を迎えた氏の制作は、20年前、東京画廊の個展の頃と変わらず充実していた。作家の加齢と作品との関係は、表現に関わる者として気になるテーマでもある。何年か前、世田谷美術館でサム・フランシスの個展があった。確か70代半ばを過ぎていた彼の作風は、彼のスタイルが定着した若い頃のものより初々しく、それまで僕が思い描いていた、生命曲線に沿った、作風の移り変わりのイメージは完全に壊れた。つまり、70歳を過ぎたら作品は枯れていくものと漠然と思っていたが、枯れるどころか、彼の作品はますます瑞々しく若返っていた。今回の「斉藤義重展」は、自分にとって作品の内容云々以上に、加齢とそれにともなう作風の変遷、そして作品に取り組む一個人と、その個人を超えてある内的・外的要因(構造的要因)にその興味はあった。

 '80年代に入り75歳を過ぎた氏は、それまで無意識に呼応していたと思われる、美術は勿論、文化全般の動向へのリアクションをまったく起こさなくなった。当時、時代はポストモダンが隆盛期を迎え、ニューペインティングを始め、表現主義的なスタイルが堰を切ったように横溢していた。そのような状況の中、氏は仙人のように自分のスタイルを固定することにより、めまぐるしく変わる外界の文化状況を逆手に取り、相対性理論のごとく、激動する外界に立つ者から見れば、氏の作品の方が変動しているように見える視座を取ったと思われる。この判断は、氏の作家としての霊感が「老い」を直感したものと僕自身は理解している。肉体の衰えと並行して、精神も衰退していくということは自然な流れでもある。氏は、そういった人間の生態的な特質を算定し、最も自分が拘って来た、無意識に横たわっているテーマに限定して表現エネルギーを凝縮することを決意したと思えた。そのテーマとは「作品として完結してしまう直前の生な表現衝動を、一瞬にして定着させたい」といったことではないかと僕は理解している。

 20年前、植木屋でのアルバイト経験を生かし、斉藤氏のアトリエで広い庭の手入れをした。その際、氏が古くなった柄杓で、芝に池の水をまく際、勢い余って柄杓の頭が柄から抜けて「カンカラカン」と飛んでいったが、慌てず騒がずおもむろに柄を付け直して水撒きを再開した氏に滑稽さを超える偉大さを感じた。氏がかって多摩美術大学の教授だった頃(学園闘争の後、学生と共に大学当局と戦い一緒に学園を去る前)一人の学生が提出物を出さず、授業を欠席していたため、普通なら単位を落とすところ氏は彼に欠席理由を尋ねた。彼は正直に彼女との恋愛で、授業どころではなかった旨を伝えたところ、氏は「うん、そうか。君は愛を創造していたわけだ」と、二重丸を付け単位を与えたというエピソードがある。氏の人柄を彷彿させる僕の好きな話しの一つだ。

 ベレー帽にパイプをくわえることが"芸術家"のスタイルだった頃、そのスタイルと対極的な姿勢をとり続けた氏は、外見に職業的アイデンティティーを表出させないというこの姿勢に「私は庶民の生活には直接関わりのないやくざな仕事をたまたま手掛けてます」という照れと、そんな自分をきっちり引き受けている潔さと自信を感じる。これからも、まだまだ粘り強く制作を続けて頂けるよう、心からその健康を祈りたいと思う。

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