寿命は経済が決める?  9月20日

 10年以上使ってきたCDコンポが不調だ。CDを入れても回転せず、気が向いたとき、それも2曲目以降でないと演奏が始まらない。老体?に、むち打って働いてもらうには、かなり工夫が必要だ。まず、 PLAY の点滅が始まったら、サーチやスキップのボタンをアットランダムに押し、敵?を混乱させ判断能力を麻痺させたところにつけ込んで、強引に PLAY  モードへオンさせようという手法を取っている。昔、ラヂオを手で叩いて接触不良を治した方法に極めて近いアナログ試行だ。メーカーに修理代を見積もってもらったら、このコンポとほぼ同じ額(店頭の展示品だったためかなり安かった)を要求された。まずいことに、昔のレコードも聴きたかったので、購入時にこのメーカー特製のプレイヤーも買ってしまったので、新しいコンポを買うとなると、現在使っているシステムコンポを全とっかえしなければならなくなる。無論、CDプレイヤー以外はチューナー、アンプ、カセットレコーダー、レコードプレーヤーそしてスピーカー全てバッチシ現役だ。しかし、時代はまさにCD全盛期。となると、AM/FM放送も音質良く聴け、懐かしい思い出の詰まったレコードも、カセットテープも聴けるのに、このシステムコンポは”寿命”を迎えることになる、まだ聴けるのに! ! 同じような事は、周りを見渡してみるといくつも見つけられる。価格破壊により、家電製品の売値は限りなく修理代に近づいていて、新品の方が修理代より安くなることも珍しくない。ほんの少し部品を交換し、修理すれば、その機能は回復するのにもかかわらず、その製品は「死」を迎えることになる。何故って、特別の思い入れや、大切な人に頂いたものでない限り、修理代以下で新品が買えるのに、わざわざ修理に出す奴はいないからだ。この腑に落ちない事態は、僕らに、寿命=「死」の定義の改定をさえ迫る。

 ものの修理代が購入代金を越えたとき、ものは死を迎えるという寿命の考え方は、倫理を超えて、経済が死の定義の決定権を握るという事態を、今、僕らは迎えていることを意味する。このことは、僕らの死生観と、存在の仕方そのものにも無意識に変容を迫るものだろう。僕らの文明は、このような事態にどう整合性を持たせて行くのだろうか・・・・・・。そんなことを、ぼんやり考えている最中、今日も焼却場には山のような粗大ゴミが排出されている。

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