国旗・国歌法案について 7月24日
阪神神戸大震災のあった年(地下鉄サリン事件の起きた年でもある)、僕は初めて海外での個展をもった。折角遠路はるばるヨーロッパまで出掛けるのだからと、旅行嫌いではあったが約一ヶ月かけてドイツの(イタリアに一週間)名所・旧跡を観光して歩いた。
日本で購入したガイドブックによると「アウシュビッツに次ぐホロコーストの地ダッハへは、一般に言う観光以上の何かが得られるので、是非立ち寄るように」とあったので、観光のノリではない重たい気分で、分かりづらい一般の路線バスを乗り継いで出掛けてみた。
最初の乗り継ぎの小さな駅のロータリーで、ガイドブックに指定してあった番号の停留所前でバスを待っていたところ、他のバスの”運ちゃん”が近づいてきて、ほんの少し英語の混ざった現地語で何やら熱く語りかけてきた。よく聞いていると「お前の立っているところより、向こうのバスのほうが20分早く着く。お前は、ダッハに行くのだろ。」というようなことを言っているらしかった。彼の熱意に負けて?彼の指示通りのバスに乗り換えたところ、予定よりかなり早く目的地のダッハに着いた。さっきの運ちゃんの言う通りにして良かった、という安堵と同時に「何故?」という不可思議さが心を過ぎった。彼の語学力から推測して、彼はごく一般の庶民だろう。でも、どうして初めて見る異国から来た東洋人に、祖国の恥部でもあるホロコーストの現実を伝えようとするのだろう。彼らの残酷なまでの厳しい歴史の捉え方は、そのまま彼らが立たされている世界の厳しさを意味しているのだろうか・・・・・。
そんなことを無意識に反芻しながら、清楚とも言える広く整然とした敷地を歩いた。
その敷地内の外れに、慰霊塔があり忌まわしい過去の犠牲者の御霊を鎮めていた。その脇には小さな資料館があり、ダッハを訪れた人々に向けて一冊のノート(芳名帳)が置かれていた。
開いてみると一番多いは、当然ながら地元ドイツだが次いで多いのは、さすがアメリカ合衆国だった。そこで、我が国日本は?と捜してみたが無駄だった。そのノートには日本人の記名もコメントも皆無だった。
当然といえば当然だがひどく寂しく惨めで、帰りのバスに同乗した同地の人達が偉大に思えた。
この体験はドイツで個展を持ったことより、自分にとってある意味で価値のあるものとなっている。
「君が代」は別にしても、「日の丸」は、僕自身嫌いではない。しかし、それらを心から愛し誇りを持って受け入れることが出来るのは、つらい過去も、誇り高い善行の過去も等価に自国の歴史に刻み込む勇気と知性と気構えを持つことが前提だろう。美しい民族性のみを強調するため、ロマンチックな国民像を演出・捏造してみたところで、そんなものは、もろい砂上の楼閣だ。第二次大戦当時の慰安婦問題も、南京大虐殺問題も、両国で徹底した資料の収集と、その資料の分析・検証が大前提だ。そして、どこまでを「事実」として認定し、それを卑屈にならず引き受ける姿勢が、人として、そして、人と人が同居して運営する国としての最低限の条件だ。そのような責任の取り方をする国ならば、とてもつらいが、過去を引きずりつつも国を愛することができる。
人間、条件さえ揃えば民族、人種を越えて想像を絶する非人道的奇行に走る事は、歴史を見れば明らかだろう。
ホロコーストもオウムも、常に僕らの内面に用意されている。重要なのは、それらが表出してくる条件が揃わないよう、様々な工夫をすることが、禁断のリンゴを食べ、たくさんの業を背負って生まれ落ちたわれわれ人間の身の処し方だろう。
美しい過去の虚像を語る政治家より、やむなく敵の人肉を食んだことをわれわれに語ってくれた元日本兵がいたことの方が、僕らにとってはるかに意味があり、そして、その事実を伝えていくことが真の誇りに繋がるものと思う。人も国も脛に疵を持っている方が自然で深みがある。きついけれど、人や国を愛するとはそのようなものだ。