謹賀新年 1月10日
PCが滅茶苦茶調子悪く、結局修理に出すことにした。一昨年11月末に購入し、昨年2月このホームページを開設した。初めてのPCだったので、紆余曲折等、やってはいけない初歩的なミスの連続で、酷使されたPCも疲労したのかも知れない。今回のコラムは、息子のノートパソコンに周辺機器を四苦八苦して接続し、なんとかアップロード出来た。2000年の始まりに、PCとのからみから始まったのは、この先を象徴しているようでちょっと怖い。そんな訳で、今年最初のコラムは、やはりPCにも深く関係する話題から始めることになってしまった。
僕は地元のFM局(湘南ビーチサイドFM)をよく聴く。特に、毎週水・金曜日と夜10時から真夜中の2時までは、JAZZの特集となっているので楽しみにしている。歳をとると?(来月で50歳になる)流行歌はもうダメだ、もちろんロックも。そのFM局の土曜夜の番組で、小理屈をこねるパーソナリティーが居る。どうやら東洋経済なんとか?という雑誌に関わっているらしいが、その番組でなかなか面白い事を聞いた。アメリカのある大学の教授であり、企業家でもあるマービン・ヴィンスキー?という思想家の、とても刺激的で挑戦的な考えだ。彼によると、人類史は先に生まれた者が、後から生まれてくる者に対し道具の使い方を教えてきた歴史であったが、現代は人類始まって以来、先人が後人に道具の使い方を教わらなければならない時代に入ったというのである。具体的には、家電器具をはじめ、TVヴィデオのリモコンの使い方等々、携帯電話に至っては町中で歩きながら片手で、通話はおろかmailまでもあっさりやってのける今の若者に脱帽といったところだ。無論、PCに至っては言を待たない。従って、今の学校教育のシステムもその内容も、全く時代に合わなくなっているという。これからの学校教育の理念は、如何に大人になるかではなく、如何に子供に戻るか(無論大脳の柔軟さについてだ)という、いままでの教育方針と逆のヴェクトルをもたなければならなくなったと言う訳だ。彼の論旨には、大分皮肉が込められていて、残酷なくらいに現代を揶揄する趣があるが、その視点は、現代社会の弱みをしっかり突いており、耳を傾けるのに充分な価値があった。良い悪いは別として、常にニュートラルな姿勢を保つことが、現在、重要な生きる姿勢になったということだ。単に教育に限らず、現代そのものが大きく変わらなければならないような閉塞状態であることは確かなので、難しいとは思うが彼のような視線を現代の我々の社会も、積極的に受け入れていかなければならないと思う。ただし、この考え方は難しい問題も残している。それは、老いという事態を社会の中でどう位置づけていくか、つまり、加齢にともなり変容していく社会に対して、本人が培ってきた知識が役に立たなくなってしまうということを、人間存在の価値付けと如何に切り離して、老若男女を問わず、等価に社会の中で存在できるように出来るか?という重たい課題を産み落とした。古くなった知識が役に立たなくなるということが、イコール古くなった(老いた)人間が、社会にとって役に立たなくなるという回路以外に、別の新たな回路を用意する必要が出たことになる。確かにテクノロジーというフィールドでの時間軸では、「若さ」は「老い」より明らかに価値あるものだが、別のフィールドでは、必ずしも「若さ」から「老い」へと向かうヴェクトルを持つ時間軸が成立しているとは限らない。僕らの内面には、より多くの時間軸が様々な形と次元で存在しているはずだ。その時間軸をどう評価し社会の中で市民権を持たせるかが、これからの社会の重要なテーマだと思う。少子化で若い者が年寄りを養う事の負担率が、今以上に高くなるこれからの社会では切実な問題になるに違いない。今年も昨年同様、「老い」というものがこのHPのキーワードになりそうなので、その旨宜しくお願いします。