続・金と銀--かがやきの日本美術     12月7日

 前回、人間の感覚器官に着目して金色(gold)について少しだけ語ってみた。色について語り始めると、無限に語り続けなければ語り尽くせないような強迫観念に陥る。心について語るときと同じだ。語れば語るほど真の姿から遠く離れていくように感じてしまう。それは、色彩それぞれが関係を持って関数として存在しているために違いない。今後の自然科学の進展に期待したい。

 今回は、人間の文化的な側面から視ると(ゲシュタルトと言ってもいいが)どんなことが浮かび上がってくるか視てみたい。

 僕は、漆芸家なので結構日常的に金(gold)を使う。使い慣れているのであまり強く感じることはないが、でも若干の後ろめたさを無意識に持ちつつ、それを吹っ切るように大胆に使うことにしている。その無意識を覗いてみると、永い美術の歴史の中で金(gold)が反則気味に?使われてきたし又、今も使われている事実に気づく。反則気味に使うことの最たるものが「金継ぎ」だ。壊れて屑同然となったものを、金と漆を使って継ぎ、その割れ目に金蒔絵の手法を使って「割れ筋」を、「装飾としての金の筋」に変換してしまうとは、完全犯罪と言えるほど見事な反則技だ。つまり、金(gold)という材質のもつ特性以上のものを、表現として上乗せできる特典を持つのが「金の文化的使用」?と言える。これは日本のお家芸で、金蒔絵など反則のチャンピョンといえるかも知れない。器物の表層だけに金粉を蒔きつけ研磨する事により、まるで本胎そのものまで金で出来ているかのように見せる技術が、蒔絵の本質だからだ。 ルネッサンス以後のヨーロッパでは、このような表現を厳しいリアリズムの中で、意識的にあるいは無意識的に避けられて来た。彼らは、近代に入って光学から学んだ「ものには固有色は無い」という厳密に意識化された視線により、印象派の画家のように、金色のものを金(gold)を使って描くことはほとんど無く、その意味で反則無くリアリズムを貫徹してきたと言えそうだ。マルコポーロが誤解するのも無理がないほど、金(gold)を使った反則技は、日本文化の中で市民権を持ってしまった。なるほど金(gold)という素材は、僕らの網膜に対してその刺激度は高く、そして色彩という意味では最も抽象度が高い。さらに、腐食する事がないという化学的特性が、他の金属を凌ぐ付加価値を付け超越的な位置を持つことになった。金(gold)のもつこのような特性が、金(gold)のイメージをさらに膨らませ、イメージの自律化という僕たちの持つ観念の特性により、金(gold)にまつわる神話(ゲシュタルト)が生まれることになった。金(gold)は、高貴なもの、聖なるもの、豊かさの象徴、高価なもの等、超越的な特権を持ち、これらの特権を背景に持ちつつ記号的に使われ、そのイメージは流布していく。金箔入りの酒、金箔の乗った和菓子等々、あげたらきりがないほど金(gold)は、その神話の効力により、そのもの以上の付加価値を生む。これを一概に「悪」と決めつけるのは野暮というものだろう。それをもって何となく豊かな気分になれるのなら、それはそれでいいのかも知れない。なんだか歯切れが悪くなってきた。僕も日本人だということか。これ以上語ると嘘をつき始めそうなので、金(gold)についての話しはこの辺でお終いにしたい。

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