金と銀--かがやきの日本美術 11月27日
先日、東京国立博物館にて開催された「金と銀--かがやきの日本美術」を観た。陳列されたものが、どういう根拠で選ばれたのか、首を傾げるほど日本美術の中での金と銀の使われ方が日常となっていることを、改めて気づかされた。事実帰りに本館の常設展示にも足を向けてみたが、「金と銀」の企画展との差異を感じられないほど、金と銀を使った展示品が溢れかえっていた。つまり、日本美術は金(gold)を抜きに成立しないと言っていいほど、日常的に金(gold)が使われているということだ。マルコポーロが日本を「金の国」と呼んだのは、なるほどうなずける。それにしても金(gold)という素材は僕らに何をもたらすのだろうか。僕らが素材(material)を認識するということは、その素材の光沢や表面のざらつき、色彩等、その存在のきめを眼が経験を加味して構成した結果得られる「像」の結び方と言える。そして、色彩に関しては、純粋に特定の波長の差異により、それぞれの色の違いとして眼球の網膜を通して得られる情報と言える。一般的に、素材と色を同時に認識することは不可能だ。色を認識した後に素材を読みとるか、あるいは素材を確認した後に色を確かめるか、順序をづらして認識しなければならないように僕らの感覚器官は出来ている。ただし、金(gold)を初めとする金属色は、色と素材を同時に受容する特異なものと言える。 金(gold)という素材は、眼という感官を最も強く刺激する素材であることは間違いないが、金色という色が在るわけではない。photo shop 等、画像加工ソフトを使った経験のあるも者なら分かると思うが、金色を画面上に作るには、スキャンした金色を示す部分をスポイトで同調させ、仕上げにハレーションを入れることにより、模擬的な反射光を加えないと金色なるものを作成できない。このことは、何よりも金色という固有の波長をもつ色は無いことを意味する。
人間の感覚器官に視座を据えて「金色」を考察してみたが、その反射率の違いと反射の構造の違いにより、絵の具の色(減算混合)や光の色(加算混合)で合成できる他の色とは質が違う事まで辿り着けたが、まだ充分な考察とは言えない。次回は、文化的な面(ゲシュタルト)から金(gold)を視ると、どんなことが浮かび上がってくるか考察してみたい。《この項続く》BACK