「Golden Boy」をみて 7月17日
「とどいていない」 そう、とどいていないのだ。これがかみさんの休日に、彼女に誘われて出かけた映画「Golden Boy」を見た後の率直な感想だ。この作品のテーマは、ホロコーストに象徴される人間が持つ異常行動とその心理だが、何故時としてそのような奇異な行動を人はとるのかの必然性が、この作品を見る限りにおいて伝わってこない。異常行動だけを画面に登場させ、何故そのような行為が、同じ状況を共有していない者同士の間で伝搬するのか描かれていないのが不満だ。 小学校にあがる前、日本はまだ高度成長期に入っていなかった頃、まだ開発が進んでいなかったので近所には畑や空き地がたくさんあった。ある日、野バラを避けながら畑を抜けて、いつもの空き地へ抜けようと急いでいると、学生服に白線の入った学帽をかぶった会ったたこともない中学生が目の前にぴょんと現れ、行く手を阻んだ。そして、腹蔵を持った親しげな態度で茂った草むらの奥にある肥溜めへと偶然を装って突き落とそうとしてきた。執拗に繰り返そうとする彼に、反べそをかきながら強く抵抗したこともあり、このような行為が必然的に行き着くように、より実現可能な弱者へと彼の矛先は向けられた。運悪くそばにはジステンパーにかかった痩せこけた野良犬が尻尾を振って寄ってきた。間髪を入れずその中学生は何の躊躇もなくその犬を肥溜めに蹴り込んだ。息をのんで彼を見上げると、表情一つ変えず、必死に淵まで泳ぎ着きあがろうとする犬を再び糞溜めへ蹴り込んだ。そのうちその犬は糞と同化してしまった。気が付くと彼の連れてきた三つ位の妹が泣きじゃくっていて、「お前も糞溜めテンパーにしてやろうか」と捨てぜりふを残して彼は去っていった。これが僕の「悪」の原体験だ。後年、小学校六年頃、半分不法投棄してあったポンコツのバスの昇降口に枯れ草を持ち込み、野良猫を放り込み火をつけたことと何処かでリンクしていることは間違いないだろう。
タモリが言っていた。「愛と夢」これが全ての悲劇の根源だと。無論この「愛」の中には「性」が含まれる。ホロコーストは勿論、殺意を中心とする様々な人間の非倫理的行為は、その裏に「愛」が存在すると断言出来る。その「愛」の内容は様々だ。国家愛・隣人愛・恋愛・親子愛等々。愛へのエネルギーは、殺意のエネルギーとその絶対値は同じだ。それは、その出所が恐らくぴったりと重なっているからだろう。戦争へ駆りたてるものと、それへのエネルギーの出所は愛だ。それ故、対立する相手に対して倒錯した拷問や、強姦が当たり前に行われ、民族愛の下にホロコーストも正当化出来るのだ。「対幻想(恋愛)の変容形が共同幻想(国家)だ」と言う吉本理論は、この点でも裏がとれ正しいと言える。そういった意味での「愛」を象徴するものが「Golden Boy」には抜けている。それが、この作品を観た後に感ずる決定的な欠如感だと思う。