「悪魔」のヘルパー  7月9日

 EXTRA PROFILE で紹介したように、僕のかみさんは、地元の老人給食のボランティアを企画運営していることから発展して、現在隣町の老人ホームにヘルパーとして勤務している。その彼女がよく口にするのは「どこのホームも無意味に延命させることにきゅうきゅうとし過ぎていて、なかなか死なせてもらえない。まるで、死ぬことは悪いことでもするみたいで、もっと自然に死を受け入れられないのだろうか?」といったことだ。そして、介護を受ける老人が要求する様々なことを、殆どのヘルパーは無条件に受け入れてしまう職場の中で、彼女は一つ一つの要求に対して、それが相手にとって今本当に必要なのかどうかを判断してから事に対応するので、相手にとって都合が悪いこともあり「東さんは意地悪だ」と時々言われるそうだ。例えば、食事の際、瀕死の重病人は別としてなるべく自分で噛んで食べた方がいい場合でも、雛の餌のようにすり身にしてスプーンで流し込んでしまったり、転ぶと骨折をしてしまうので散歩には車椅子を使ってしまう等々、ヘルパーが付き添うことの意味が理解されてないと考える彼女と、怪我をさせないことがヘルパーの最も重要なつとめ、と考える他のヘルパーとぶつかることもしばしばだそうだ。職場の同僚もそんな彼女を半分面白がって微笑ましく「悪魔のヘルパー」と呼んでいるそうな。人間らしく生きることを大切に考えるか、あるいは、とにかく長生きも芸のうちと延命させることをマニアル通りに介護することを大切にするのか、でぶつかる事態は自己判断能力の欠如、あるいは放棄している日本の現状では当然起きる事態なのだが、オウムを始め大蔵省、厚生省、防衛庁、銀行、証券会社等々の様々な不祥事を、末端の一信者、一役人、一行員、一社員は「上層部のやったことだから自分の関与することではない」とする態度は全て共通している。                
最近、オウムの活動が活発化して来ていることが報道され、各地で地域の住民と激しく衝突しているが、「地下鉄サリン事件を、自分たちで総括出来ていない信者達が、生きる権利を主張出来るのか!」ともっともな意見を皆口にするのだが、翻って僕らは自分の組織の不祥事を自分の問題としてきっちり総括する姿勢があるのか?と問うと、誰も彼らをあれほど激しく糾弾出来ないはずだ。戦前、戦後を通じて僕らは自己判断を停止することで”和”を保ってきた。富国強兵、経済成長と共通する単一の目的を成就するのためには、個々の自己判断力など不必要だったと思える。しかし、ビックバーンによる国際化は、きちっとした自己判断とそれによる責任の所在の明確化は最低の条件となり、それに並行して他と違う"自己”を売り物にしていく西洋型の経済に移行して行くことは必至だ。それはつまり皆が「悪魔のヘルパー」と呼ばれるきつさを引き受け、それぞれが自己判断能力を付け、責任を明確にする態度を養っていかなければならない時代に入ったことを意味している。同時に、組織はその内部に自浄装置を持つことも忘れてはならない。

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